平成29年度事業予定

平成29年度 休館日
2017年
 4月 3(月)、10(月)、17(月)、24(月)、28(木)
 5月 1(月)、8(月)、15(月)、22(月)、29(月)、31(水)
 6月 5(月)、12(月)、19(月)、26(月)、30(金)
 7月 3(月)、10(月)、18(火)、24(月)、31(月)
 8月 7(月)、14(月)、21(月)、28(月)、31(木)
 9月 4(月)、11(月)、19(火)、25(月)、29(金)
10月 2(月)、10(火)、16(月)、23(月)、30(月)、31(火)
11月 6(月)、13(月)、20(月)、27(月)、30(木)
12月 4(月)、11(月)、18(月)、25(月)、28(木)~31(日)
2018年
 1月 1(月)~4(木)、9(火)、15(月)、22(月)、29(月)、31(水)
 2月 5(月)、13(火)、19(月)、26(月)、28(水)
 3月 5(月)、12(月)、19(月)、26(月)、30(金)

2010年1月30日土曜日

展示品紹介⑦ 巧の松

巧には、二つの顔がありました。
一つは、朝鮮半島の工芸品研究家としての顔。
そして、もう一つは林業の技術者としての顔。


巧が朝鮮人同僚たちの何気ない会話から、
ヒントを得たという「露天埋蔵法」は、
当時としては画期的な発見でした。

また養苗に関する論文を発表したり、
講演をしたりもしています。
「学者たりうる人物であった」と評する、
林業関係者もいます。

資料館には、苗を育てる巧のジオラマ
(左側、しゃがんでいる人が巧です)の横に、
巧が実際に朝鮮半島で植えた松の木が
伐り出され、展示してあります。

太いものは一抱えほどもあり、
年輪を見せているものは樹齢80年ほど、
直径が50センチ近くあります。
巧が植えた木々は、
巧亡き後も着々と根を張り、枝葉をひろげ、
堂々たる大樹に成長していました。

朝鮮半島には今も、
巧ゆかりの木々が沢山あるはずです。

資料館だより⑦

資料館の前からは、
瑞牆山(みずがきやま)も少し見えます。

標高2230メートルの岩山で、
空海開山伝説もある信仰の山です。
この山も深田久弥の「百名山」の一つです。



伯教さんは、甲府の師範学校に、
二度目の受験でようやく合格しました。
しかし、その頃、本当になりたかったのは彫刻家。

教師になってからも、
ずっと彫刻の修行を続けていました。
奥さんのたかよさんによると、
家に児童教員の参考書などは、
一冊もなかったそうです。

そんな「伯教先生」ですが、
同僚や教え子の評判は決して悪くありません。

やはり「名人肌」だけに、
手抜きはできなかったのでしょう。

京城時代の教え子の中には、
作曲家の古賀政男氏がいます。

2010年1月20日水曜日

展示品紹介⑥ 続・李朝の壷(写し)

高さ約44センチのこの壷には、
青花辰砂蓮花文壷(せいかしんしゃれんかもんつぼ)
という名前がついています。

伯教が見出したこの壷に、
柳宗悦が出会ったのは1920(大正9)年、
二度目の朝鮮旅行の折。

「凡てが夢見るようである」と記された、
その時の感動も、
朝鮮民族美術館設立の
大きな原動力となったようです。

巧もインド人の陶芸家シングと、
この壷をはさんで、
記念写真をとっています。

シングの他にも、柳から
「是非この壷を見るように」
とすすめられた者は、
少なくないようです。

巧の日記にも、この壷が登場します。
特に1922(大正11)年8月6日には、
蓮の花をこの壷に挿してみたら、
「部屋中が輝いた」。
そして、まだ幼かった伯教の長女が、
「お嬢さんのようだと評した」。

今や李朝陶磁器の
最高傑作の一つに数えられるようになった、
この壷の本物は現在、
大阪市立東洋陶磁美術館にあります。

資料館だより⑥

資料館前から見た茅ヶ岳です。
休火山で、標高1704メートル。

東京方面から来ると、
先にこの山が目に入り、
しかも一見、八ヶ岳に似ているので、
「にせ八つ」と呼ぶ人もいます。

「日本百名山」の著者、深田久弥が、
登山中に亡くなったことでも知られています。


巧さんの日記を読んでいると、
食事に関する記録が多いことに気づきます。

うどん、素麺、いいだこの煮たの、
川魚の南蛮味噌煮、茄子焼、饅頭、
南瓜や茄子や唐辛子の葉の天ぷら・・・等々。

お気に入りは冷麺と、ソルロンタンだったようです。
かなりの食道楽とお見受けしました。

空腹の時は読まない方がいいかもしれません。

2010年1月11日月曜日

展示品紹介⑤ 李朝の壷(写し)

「李朝染付草花文瓢型瓶(部分)」あるいは
「染付秋草文面取壷」などと呼ばれている、
高さ13cmほどの小さな壷ですが・・・

浅川兄弟と柳宗悦を結びつけ、
李朝の工芸品に脚光をあてるきっかけをつくり、
さらには後に展開される民藝運動の
原点ともなるという、
大きな役割を果たしました。

元々は瓢型の瓶として作られたようですが、
何らかの理由で上半分が切り落とされ、
このような形になったと思われます。

この壷は、1914(大正3)年、
京城(現・韓国ソウル市)で小学校の教師をしながら
彫刻の修行もしていた30歳の伯教が、
憧れのロダンの作品を柳宗悦が預かっていると知り、
千葉の我孫子にあった柳宅を訪れた際、
手土産としたものです。

二人はこの時が初対面でした。

一方、23歳の巧は、
この年に秋田の営林署を辞め、
朝鮮半島に渡っています。
柳と出会うのは、翌年暮れのことになります。


この壷に魅せられたことで、
柳は李朝の焼き物への関心を、
一気に強めることとなりました。

そして次第に朝鮮半島との関わりを、
深めていくことなるのです。

資料館に展示してあるものは、
本物に似せた「写し」ですが、
雰囲気は充分、感じ取っていただけると思います。

本物は東京・駒場の日本民藝館にあります。

資料館だより⑤

資料館の周辺を歩いていますと、
あちこちで石仏を見かけます。

上の写真のように風化して、
元の形がわかりにくくなっているものもありますが、
このあたりで一番多いのは馬頭観音だそうです。

馬の守護から慰霊まで、
幅広い信仰を集めた観音さまです。
馬が家族の一員だったことの証でしょう。

伯教さんも生まれ故郷のことを、
「馬と同居して居ると人の云ふ処」と書いています。

後にクリスチャンとなる浅川兄弟ですが、
路傍の仏さまの中には、
若かりし伯教さん巧さんの知られざるエピソードを、
ご存知の方もいらっしゃるかもしれません。

2010年1月5日火曜日

展示品紹介④ 伯教の色紙 「春」

伯教は壷の絵をたくさん描いています。

資料館に現在展示されているだけでも、
色紙や掛軸、屏風など8点。


ご家族の証言によると、
家にいる時はいつも壷の絵ばかり書いていて、
食事中でも宙に手で描いていたほどだとか。

この絵のような形の壷が好きだったのでしょうか、
柄違いが何点もあります。

安倍能成によると「理想家」だったという伯教。

案外、いまだ出会っていない「理想の壷」を
追い求めていたのかもしれません。


作陶もした伯教ですが、
作った陶器の大半は茶碗だといいます。

資料館だより④


新年あけましておめでとうございます。
上の写真は資料館から見た富士山です。
資料館は標高700メートルほどの
ところにありますので、
この時期はかなり冷え込みます。

「冬に夏をのみ思ふは愚者」で、
「冬来れば冬を味ふ」のが巧さん流のようですが、
ご来館の際はどうぞ暖かい服装でお越しください。
今年はいわゆる「日韓併合」から100年。
あらためて過去に学び、
ともによりよい未来を築き上げていくための、
手がかりとしたいものです。