【開館時間】10:00~17:00(入館は16:30まで)
観覧料】 大人210円  小中生100円
20名様以上の団体料金 大人100円 小中生50円

浅川伯教・巧兄弟資料館 (アサカワノリタカ・タクミ キョウダイシリョウカン)
〒408-0002
山梨県北杜市高根町村山北割 3315
   (ホクトシ タカネチョウ ムラヤマキタワリ)
電話:0551ー42ー1447
FAX: 0551ー47ー4784

2009年12月23日水曜日

年末年始休館のお知らせ

資料館は12月28日(月)から
年末年始のお休みに入らせていただきます。

新年は1月5日(火)から開館させていただきますので、
どうぞよろしくお願い申し上げます。

2009年12月20日日曜日

展示品紹介③ 浅川兄弟がふれた韓国 「食」

上の写真は「交子床(キョジャサン)」と呼ばれる、
韓国のおもてなし膳です。

家庭内に慶事があった時に、
大勢で一緒に食卓を囲めるよう、
ととのえるということです。

展示されているのは秋の献立例で、
温麺、白身魚のフェ(刺身)、煎の盛り合わせ、
カルビチム(牛あばら肉の煮物)、梨のデザート等々。

もちろん本物ではありませんが、
お客さまの中には、
このコーナーでもっとも目が輝く方々も
いらっしゃいます。

資料館だより③


資料館入り口前のクリスマスツリーです。

同じ建物の中にある「たかね図書館」の
スタッフが飾り付けてくれたものです。

図書館には浅川兄弟の関連書籍を
集めたコーナーもありますので、
ご来館の際はぜひ、お立ち寄りください。


浅川兄弟は二人とも熱心なクリスチャンでした。
しかし巧さんの日記によると、
1922(大正11)年の12月は23日から25日にかけ、
一時帰国の旅の最中で、
クリスマスのクの字もありません。

数日後の31日に、
韮崎教会の伝道師が子供たちに、
「クリスマスの唱歌だけ教えた」とあるのみです。
この年は日本でお正月を迎えたようです。

2009年12月16日水曜日

展示品紹介② 続・巧の日記とデスマスク

巧のデスマスクは兄・伯教が書いたものです。

A5版ほどの大きさの紙に濃い目の鉛筆を使い、
短時間で仕上げたと思われます。

巧亡き後、日記とデスマスクは
伯教が保管していましたが、
戦後まもなく金成鎮(キム・ソンジン)氏に
託されることとなりました。

伯教と金氏は1945(昭和20)年9月、
ある骨董品店で出会いました。

初対面にも関わらず話がはずみ、
伯教の家で、伯教の眼にかなった陶磁器を
譲ることになりました。

翌日、譲り受ける陶磁器の話がまとまり、
金氏が帰ろうとすると、
奥の部屋から伯教は、
日記とデスマスクを持ってきました。
「これをお渡しします」

以前から巧のことを尊敬していたという金氏に、
何か感ずるものがあったのでしょう。

伯教は陶磁器のみならず、人を見る目も確かでした。

金氏は日記とデスマスクを大事に守ってくれました。
1950(昭和25)年に始まった朝鮮戦争の時も、
家財道具は打ち捨てても、
背中にしょって避難してくれたほどです。

そして、その大事な宝物を1996(平成8)年には、
兄弟の生まれ故郷である当時の高根町(現・北杜市)に、
寄贈してくださいました。

そのことが当資料館設立の大きなきっかけとなったことは、
言うまでもありません。

資料館だより②

資料館から見た南アルプスです。
中央の一段高い山が甲斐駒ケ岳です。


資料館では来館者の皆様に、
アンケートをお願いしています。

今年度の中間集計では
半数以上が県外からのお客さまで、
男女比はほぼ半々、
60歳以上の方が全体の4割をしめていました。
ご来館の際には是非、ご協力をお願いいたします。

また皆様に自由にご記入いただける、
ノートもご用意しておりますので、
ご活用ください。


(こぼれ話②)

先日、閉館後に一人で後片付けをしていた職員が、
ドアの外で異様な物音がするのに気づきました。

ガリガリガリ、バリバリバリ・・・。

日の短い昨今、もう外は真っ暗です。

おそるおそるドアを開けてみると、
そこには丸顔の三毛猫さんが「にゃー」。
なんと事務室の木のドアで爪をといでいたのです。

もちろん厳重注意処分となりました。

巧さんの1922(大正11)年10月6日の日記にも、
窯跡めぐりの際に出会った「小猫」の話が出てきます。

よほどお腹がすいていたらしく、
「バタのついたパンを遣ったら
鼠を捕ったときの様にうなって嘗めていた」。

きっと自分の食べる分をわけてあげたのでしょうね。

2009年12月15日火曜日

展示品紹介① 巧の日記とデスマスク


巧の日記とデスマスクです。
保存の都合上、展示してあるのは複製ですが、
精巧に再現されています。

日記はA4サイズ位の400字詰原稿用紙に黒インクで書かれ、
二つ折りにして月別にとじてあります。

日記の文章は活字で読むと抑制のきいた印象を受けますが、
実際は勢いのある文字で、流れるように書かれています。

また何箇所も修正のあとがあったりしますので、
やはり思いのままを筆にまかせてつづったものでしょう。

現存している日記は1922(大正11)年の1月から12月までと、
翌1923(大正12)年の7月と9月のものです。

この時、巧は30~32歳。

前年に最初の妻みつえに先立たれ、
林業試験場の雇員から技手に昇進する一方、
兄伯教や柳宗悦らとともに、
1924(大正13)年の朝鮮民族美術館設立に向け、
奔走していた時期にあたります。

資料館だより①

資料館の近辺は八ヶ岳がとてもきれいに見えるところです。
八ヶ岳だけでなく南アルプスや茅ヶ岳の眺めも素晴らしく、
天気のいい日には富士山の雄姿も拝めます。

この近くで生まれ育った浅川兄弟も、
毎日のように同じ景色を眺めていたことでしょう。

兄弟の人並みならぬ審美眼は、
この贅沢な風景の中でこそ、
はぐくまれたのではないでしょうか。

(こぼれ話①)
日曜日の午後、事務室に突然、
一人のお客様が飛び込んでこられました。

2歳か3歳くらいの可愛らしい男のお子さんです。

そして入ってくるなり、一人で仕事をしていた職員に向かって、
「だれ?」と、何とも哲学的なご質問。

答えにつまる職員のことなど気にかけず、
そのまま軽やかな足取りで出て行かれましたが。

子供が大好きだったという巧さん。
朝鮮の子供たちの遊びにも、とても詳しかったそうです。