35歳の時に教師をやめ、以前から師事していた
新海竹太郎の内弟子になります。
妻子を抱えた身としては、
かなり思い切った決断だったでしょう。
翌年には帝展(今の日展)に入選し、
早くも結果を出しますが、翌年は自信作が落選。
その2年後には内弟子をやめ、
朝鮮半島に帰りました。
それでも、しばらくは制作を続け、
様々な美術展で度々入選し、
44歳の時には朝鮮美術展で特選をとっています。
しかし、どうやらそのあたりで
彫刻には見切りをつけたらしく、
入れ替わるように本格的に作陶を始めました。
少年時代には、色々と手ほどきも
受けたということですから、
素地はあったと思われます。
美術から文学まで、
多芸多才といわれる伯教ですが、
要はクリエイティブなことが
好きだったということでしょう。