コロナ禍の約4年間では韓国訪問が叶いませんでしたが、2023年1月11日から13日まで、やっと韓国を訪問することができ、巧さんの墓参と抱川(ポチョン)市との姉妹結縁20周年の交流内容についての協議を行いました。
上村北杜市長、福井議会議長にとっては初訪問であり、1日目には社団法人・ソウル国際親善協会の李淳柱(イ・スンジュ)会長のご手配によって浅川巧の墓参を行いました。在大韓民国日本国大使館公務文化院の中條一夫院長(公使)、国際交流基金ソウル日本文化センターの加藤剛(タケシ)所長、清州大学校の閔徳基(ミン・ドッキ)名誉教授、高麗大学の嚴仁卿(オム・インキュン)教授、財団法人・蘇湖文化財団の金炳允(キム・ビョンユン)理事長、鄭好蓮(チョン・ホヨン)さん、李熙健(イ・ヒゴン)財団など、浅川巧を敬愛する多数の韓国関係者も参加してくださいました。
2日目は抱川市を訪問し、白永紘(ペク・ヨンヒョン)抱川市長、チョン・ドクチェ副市長の歓迎を受けました。
今年が「姉妹結縁20周年」に当たることから、記念式典を行うための協議や姉妹結縁の継続を確認するために『覚書』に両市長が署名を行いました。また抱川市には指名結縁のきっかけになった浅川巧が働いていた当時の中部林業試験場がありましたが、現在は韓国の人々の憩いの公園となっている『国立樹木園・光陵(クァンルン)の森』を見学させていただきました。
館長 比奈田 善彦
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巧のお墓について。。
巧の勤めていた林業試験場の後輩の後輩にあたるのちの場長になった趙在明(チョ・ジェミョン)さんが巧のお墓の使用許可書に『親戚』と記入して許可を得たことで、墓地の存続が維持できました。
1984年にその趙さんが中心になり、当時の林業試験場の職員一同で記念碑が建てられました。そのハングルの碑文には『韓国の山と民藝を愛し、韓国人の心の中に生きた日本人、ここ韓国の土となる』と刻まれています。
(伯教デザインの白磁の壷をかたどった墓標)
高崎宗司著「朝鮮の土となった日本人」から引用すると、「夫と娘一人残して死んだが、びっくりするくらい頻繁に墓参りをするので、彼女らが<両手、両膝>をついた場所・八か所の芝が死んだ。それを見て、韓国人たちが感銘を受けた」という話が書かれています。