「浅川兄弟がいた甲府を歩く」の見学会が行われました。
当日は朝から雨模様でしたが、参加者の皆さんは傘をさしながら、
まず、浅川政歳家の墓参をしました。
▲墓参の様子です
浅川政歳は農林学校時代の親友で、
後に巧の義弟となった人です。
巧の最初の妻・みつゑの墓は、
実家である浅川政歳家の墓地内に
「東向きに十字架を立てて」あったと、
巧の日記に書かれています。
1922(大正11)年の年越しに、
巧は龍岡の政歳宅を訪れ、
政歳、娘の園絵とともに
みつゑの墓参をしました。
次に訪ねたのは、巧が1907(明治40)年から
1911(明治43)年まで通った
(旧竜王村)赤坂の山梨県立農林学校跡地です。
巧は第4期生として入学。
兄・伯教と旧池田村に住んでここへ登校しました。
池田村では、小宮山清三と懇意になります。
彼との交際を通して、朝鮮に関心を抱いたり、
甲府メゾジスト教会で受洗したりと、
兄弟にとって、伯教より4歳年上の小宮山は、
示唆に富んだ人物であったと言えるでしょう。
小宮山家では、清三の孫に当たる小宮山要さんから、
貴重な資料ともども、ご説明をいただきました。
▲小宮山家にて
午後は甲府教会にて、金明淑牧師から
メソジスト教会についてのお話を伺うことからスタートしました。
▲メゾジスト教会にて
朝鮮で兄弟は明洞教会に所属しており、
当時の教会内の雰囲気などについても言及され、
参加者の方からも活発に質問が寄せられました。
その後、小宮山清三が使用していた文庫蔵が
移築されている中央市へ移動し、
当主の志村美郎氏からお話を伺うとともに、
蔵内の見学をさせていただきました。 ▲移築された文庫蔵
梁や階段などは、往時を偲ばせる
しっかりしたつくりで、この蔵に伯教も巧も、
そして柳宗悦も入ったのだと、しみじみ見入ってしまいました。
木喰仏が何処で発見されたのかなど、
話題に事欠かない見学時間でした。
最後の見学場所、県立農林高等学校100周年歴史館内の
浅川巧コーナーでは、野田光彦先生に、
▲農林高校にて通信簿や『神農』に寄稿したページなど、学生時代の巧が、
実に生き生きと活動していたことが見て取れました。
兄弟が甲府で過ごした数年は、 その後の彼等の人生に、
大きな指針となったことは間違いないでしょう。